飢餓海峡冬景色



太地喜和子外伝!杉戸八重 水上勉『飢餓海峡』

特集:太地喜和子 第一弾『いい女列伝 伝説の名女優!太地喜和子』も合わせてご覧ください。
特集:太地喜和子 第二弾太地喜和子RETURNS!其ノ壱『近松心中物語』も合わせてご覧ください。




文学座公演「飢餓海峡」パンフレット 水上勉=作 木村光一=演出(1977年再演)









  1972年12月、太地喜和子は彼女にとって運命の作品ともいえる水上勉の『飢餓海峡』(木村光一演出)の杉戸八重の役を手に入れる。『飢餓海峡』は1964年に内田吐夢によって映画化され、かつて、十九歳の太地が俳優座養成学校を休学してまで身も心も捧げ、究極の愛を攻めあった三國連太郎(当時41歳)の名演で名高い問題作だ。喜和子は、三國を「飢餓海峡」のロケ現場の函館まで追いかけて行っていたが、三國はなきじゃくる喜和子を函館の地から追い返し、以後決して会おうとしなかった・・・、酒を飲まない三國にあわせ喜和子も一滴も酒を飲まなかった半ば伝説となったロマンスだった。<感性がスポンジ状態の女の子が、三國連太郎から、芝居のなんたるかを吸い取った結果が、この「飢餓海峡」での八重の演技だ>・・・太地喜和子が太地喜和子として形成させる上に、いかに三國連太郎の存在が重要であったか・・・。


 この芝居『飢餓海峡』は文学座の木村光一が水上勉に頼んで、水上勉自身が戯曲に直して1972年に文学座が初演した。相手役の高橋悦史が樽見京一郎を演じ、金内喜久男、北村和夫、矢吹寿子、坂口芳貞らが出演している。杉戸八重は下北半島の貧しい村の樵(きこり)の娘。母が木の下敷きになってケガをして死んだ際の借金のために、娼妓になる。足腰の立たない祖父・父・食べ盛りの弟2人のために体を売ったお金をほとんど送金していました。そんな不幸な境遇でも明るさを失わない、のんびりした気のいい女性でした。薄幸の境涯に在りながら、ほんの僅かな触れ合いの中で自分を救ってくれた男を、警察の捜査から守り抜き、信じて信じて、その生涯を信じた男によって断ち切られる杉戸八重。貧困の中から、ただただ世間的な成功に邁進し、それを勝ち取りながら、八重の純情を信じる事の出来なかった犬飼多吉。誰もが物質的な飢えに喘いでいた終戦直後の日本。その物質的な飢えの象徴の様な犬飼多吉の内部に存在する心の飢餓・・・。



 おそらく、いや勿論、喜和子も映画『飢餓海峡』を見ており、純朴な娼妓・杉戸八重を演じ、毎日映画コンクール女優主演賞を受賞した左幸子のまさに地べたを這うがごとく生きる八重の演技に畏敬の念すら覚えたに違いない。ところが、喜和子の八重は、運命に従順な女でありながらも、恩に感じやすく、人情深く、涙もろい明るい娼婦だ。少しもジメジメしていない。田舎の父親に金を仕送りする為に体を売って稼いでいるたくましい娼婦。溌剌として滑稽でありながらも、実は物悲しい八重像を見事に演じた。<「陰惨な話だが、八重のできがすばらしくおもしろいので、ここに灯がともっている。これまでの水上戯曲とはほとんど一変した印象である。>、<やりすぎのそしりもあるかもしれないが、これまでの新劇畑にはなかった動物的感覚の女優である。好演といういうより、妙な言葉だが快演の方がにつかわし」>、<「水上文学を、そのように大地にはいつくばるようにして生きるものの土着のたくましさと正直さ、図々しさを表したものとしてとらえた見方は、それまでほとんどなかった。」>と評された。これで、喜和子は、文学座で、押しも押されぬ主役を張れる女優になり、日本を代表する舞台女優になった。まさに大輪の花が咲いた。(<>内、大下栄治「太地喜和子伝説」より引用させていただきました。)>



「木村は、八重のイメージを、フェリーニの傑作映画「道」のジェルソミーナのイメージだと思っていた。ジェルソミーナは、雇主である粗野な大道芸人ザンパノに家畜のようなあつかいを受ける少し頭の弱い娘である。しかし、ザンバノにいじめられてもいじめられても、時におどけながら、ザンバノに尽くしつづける。限りなく優しい。ザンバノは、ジェルソミーナを捨て、あとでジェルソミーナの死を知る。彼女の優しさをあらためて思い、もはや誰も自分にやさしくしてくれる者のいない孤独と絶望のなかで、夜の海辺に出て獣のように泣く。」(大下栄治「太地喜和子伝説」より)



「太地喜和子さんのこと 水上勉」

 文学座で上演された「雁の寺」や「五番町夕霧楼」「飢餓海峡」などで女主人公を演じて好評だった。とりわけて、「飢餓海峡」の杉戸八重役は妙技といってよく、八重の故郷青森の風土をよく表現し得て評判になった。いまでも眼をつぶると、池袋の場の太地さんが刑事をやり込めるセリフと、荷をたたんで、夜の巷へ消えてゆくうしろ姿が鮮明だ。
 「五番町夕霧楼」にしても「雁の寺」にしても出身は関西でも、みな辺境であって、「雁の寺」の里子などは京都生まれなのに生活の苦渋を匂わせているようなところがあった。好色な住職の餌になっている、尋常でない雰囲気を、何でもない歩きぶりや、物腰に表現して感心させられた。役づくりに熱心なとこがあったときいているが、脚本のよみ方がちがうのだろう。いちどならず、作者への質問が辛辣だったので、私のほうがどぎまぎしてしまったことがある。たとえば、「五番町夕霧楼」の夕子と鳳閣寺の小僧正順とが田舎は同一集落なのに、幼少時に躯のかんけいはなかったのだろうか、というような大事な質問であった。たとえばと、私はこたえたものだ。「いっしょにかくれんぼしている墓場で、夕子が、さるすべりの木へよじのぼる姿を想像してみてください。むろん、下着をつけていない夕子を、正順がみあげているのです。しかもそれが夕暮れ時なのです。そういうかんけいです。」喜和子さんは満足げにうなずいてくれた。



 太地喜和子という女優は、情念を表現するのが役柄だったと思う。しかも、境遇が上流でなくて、下層出身がよく似合った。というと、すこし、片寄りすぎるきらいがあろうけれど、私の原作物、あるいは脚色物に出演してくれて、すべてに妙技が出た。そういう境遇の女性が似合ったのである。下層出身も、どこかはなやかだった。それは上流に通底するところがあった。要するに彼女は、女性の深淵に潜んでいる妖かさを引出す役者だったのである。上層下層を問わない女の性を演じたひとだった。」
(「太地喜和子舞台写真1992-1976 撮影:一色一成 序文より」)



長田渚左「欲望という名の女優 太地喜和子」より


  太地喜和子という女優にひれ伏すほどに参ったのは、昭和47年、東横劇場で上演された『飢餓海峡』の杉戸八重の役だった。
  実際にあった青函連絡船洞爺丸の転覆事故と、岩内町の三分の二を焼きつくした大火が同じ日に重なったことをヒントに、水上勉が描いた宿業にも似た暗い過去をもつ、男の半生の物語だった。この男の運命のカギを知らずのうちに握ってしまうのが八重だ。
  八重は高等小学校を卒えてすぐ大湊の町で”千鶴”という源氏名で娼妓になった。質屋一家を惨殺し、火を放ち、仲間の二人をも海上で殺したとみられるこの大男・犬飼多吉は、八重の客となった。
  ころがり込んできた客を八重はやさしく扱った。湯に入れ、髭をそらせ、傷をした手に薬をぬって包帯を巻いた。八重の情にほだされた男は、帰りがけに「闇でもうけた金だ」と偽り、当時、腰をぬかすほどの大金五万八千円を八重に恵んだ。



  
やがて大男を探す刑事・弓坂が訪ねてくる。

弓坂「九月二十四日の夕刻だ。あんたの部屋へ時間花であがった男がいたね、背の高い男で、復員服を着ちょった。朋輩の連中がいうておったですが。その男のことをききたくってね・・・・。」
八重「・・・・・・」
弓坂「なんていう男だったすかね・・・」
八重「・・・二十四日の・・・いつのことだべ」
弓坂「いや、だから九月二十四日の夕刻だ。層雲丸の沈没した四日あとだ」
八重「さあ、お客さんはさまざま来るして・・・・わかんねえのう・・・名前もいちいち聞かねえしのう・・・」
弓坂「六尺ちかい大男で、手か足にか、傷をしてたはずだが・・・。その男の名前だよ・・・千鶴さん」
八重「(急にいま思い出したように)ああ、工藤さんでしょ、川内の・・・」
弓坂「工藤?川内?」
八重「はい、大きな人ならその人だよ。なんでも川内の製材所にきたってへってきたがら」
弓坂「川内の人でなくて、よそからきた人のはずだが。西の方のなまりがなかったかな?」
八重「津軽のことばだったよ。なんでも川内の製材所さ知りあいがいで、材木の仲買いできだってへっでらったから、はえ」
弓坂「復員服を着てたそうですね?」
八重「はえ」
弓坂「雑嚢をもってませんでしたか?」
八重「ザツノゥて・・・兵隊のカバンが?」
弓坂「ひもでくくる被いのついたカバンだ。国防色のね、ほら、よくみんながさげてあるいているあれだ」
八重「さあ・・・風呂敷みだば持ってだような気がしたけんど。・・・ああ、そん中に入っでだのがもしんねえな」
弓坂「・・・(首をかしげる。八重の嘘がみぬけない)せっかくご湯治のところをわるいですがね、もう一つききたいんだ。あなたのことを信じるからですよ。その川内の男ですが、何か、あんたに・・・いまも心に残っているようなことは話しませんでしたか。何でもいいんんだ・・・寝ている時にいったことばの中に、軍隊のことだとか何んかありませんでしたか」
八重「わだスら、お客さんのへるごとなんか、まじめにきいたごとねえもの。お客さんは名前も偽へってるし、職業も年齢も嘘へってる。本当のこと何にもしゃべんねえです。わだスらの商売の常識です。へだして、わだスら男のいうこと信じたことねえです。工藤ってへる名前も大湊にいっぺいあるがらねえ」
弓坂「何もそのほかに印象にのこることはなかったんですね」
八重「はえ、わだスは、洗濯のあとだったし、相手するのも億劫だったし・・・そいさ大男のひげはやした人は気もちィわるくてェ」

  女が生きる為の虚偽だった。八重は恵んでもらった金で自分の借金を返し、父を保養へ連れて行き、医者にもかからせた。
  自分にとって救世主に思い、片時も忘れられない男を知恵をしぼってかばった。
  素晴らしい虚偽だった。生きる為の虚偽だった。ベテラン刑事にさえ、何一つ疑いを抱かせない偽証だった。それは戯曲の世界を完成させた水上勉に負うところも大きいのだが、私自身が目にし、耳にした生身の虚偽、平たく言えば、太地喜和子の肉体化された虚偽に圧倒された。

  1977年、再演となった『飢餓海峡』を見た。私はもう一度、太地喜和子の演じる杉戸八重を見て、役者になる夢を捨てた。
  いくら懸命に手をのばしてもたどりつかない得体の知れない程の存在感を、女優・太地喜和子はふりまいていた。それは訓練や努力ではどうなるものではないを肌で感じさせた。それは”女優”という人種、つまり、魚が海に泳ぐように、鳥が空を飛ぶように太地喜和子は女優であることを感じさせるものだった。そのことを再びみた『飢餓海峡』で感じて、私は役者への道にピリオドを打った。
  そのさっぱりした結論に友や演出家は一様に驚いた。何が何でも女優になると思われているタイプだったらしい。自分の中の問題だった。私は、太地喜和子という女優を自分がぬけないという結論を自分の中で引出していた。



『飢餓海峡-改訂決定版』

  晩年の著者が病苦をおし、失明の危機にさらされながら、拡大鏡とパソコンを使って、一字一句、全ページにわたって書き直した改訂決定版。舞台となった時代にはまだなかった事物を不用意に書いてしまった。そういう点を、水上勉は丁寧に洗い出しつづけ、畢生の大作を練り直して完成させたもの。本書に「改訂決定版」と付されているのは、新潮文庫版や中央公論新社全集版のなかの誤字や思い違いの部分を著者自ら手直しした。



「――『飢餓海峡』は、昭和二十年代の飢餓の時代と昭和三十年代のアメリカ化を経た繁栄の時代をつき合わせたような作品だが、われながら「飢餓海峡」とはよくもつけたと思う。あの敗戦の時代、身に滲みて、飢餓は時代を支配していた。」(水上勉『泥の花』より) 

【水上勉(みずかみつとむ)】
  1919年(大正八)、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の?」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」r越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。(福武文庫より)昭和60年、生まれ故郷の福井県大飯郡おおい町の深い自然の中に「故郷にささやかな文化の一滴をお返ししたい。地元の子供たちに一滴の文化の心を感じてもらいたい」と、若狭一滴文庫を建てた。
  2004年、9月8日午前7時16分肺炎のため、長野県北御牧村の仕事場で亡くなりました。85才でした。



  飢餓と混乱の敗戦直後、飢餓は時代を支配していた。災害と犯罪を結びつけた問題作。1954年9月26日、大型台風のために世界の海難史上に残る連絡船・洞爺丸の遭難。乗船者と名簿の管理不十分で、犠牲者数は様々に伝えられているが、どれも1100人をはるかに越える数であった。この悲劇が、青函トンネル実現への大きな引き金になった。洞爺丸事件と同じ日、岩内という北海道の町が大火に包まれ、町の8割に当たる3300戸が焼き尽くされた。洞爺丸転覆報道のため、小さな扱いの報道しかなかった岩内大火に興味を抱いた作者は、2つの事件を結びつける犯罪小説を構想したのだ。敗戦直後の混乱と飢餓の中で、天災と殺人事件をつなげ、『罪と罰』を意識して構成された雄大なスケールの人間ドラマ。娯楽性高い推理仕立ての堂々たる社会派作品。とは言っても、この物語は、ミステリーとしては最初から犯人が登場している倒叙形式で、犯行の様子も金を奪う強盗殺人であった動機も、それを隠ぺいするための殺人であることも提示されている。しかし、水上勉が週刊誌に、一年かけて連載しても完結せず、その後こつこつ530枚も書き足して完成させたのは、この杉戸八重や樽見京一郎の懸命に生きた軌跡を書きたかったからであった。水上氏は、あとがきで、発表当時「推理小説」としては不手際とされたこの語り口による本作を「人間小説」と呼んでいる。



「大事なことをいっておくと、私はこの作品を書いたころから推理小説への情熱を失っていた。つまり約束事にしばられる小説のむなしさについてであった。推理小説は周知のように犯人当てが楽しみであり、事件の解明や、殺人動機について奇抜な工夫が要求される。奇抜が奇抜であるほど成果が高い。私はそういう小説の娯楽性を拒否するものではない。けれどもそれがいくらよくきまって、よくしあがっても、どこかからふいてくる空しさ、それが我慢ならなかった。」




「当時、先生は心筋梗塞で心臓の三分の二を失って不自由な上に、白内障と網膜剥離で視力を極端に落とし自宅から動けない状態でした。そうした中、パソコンを始められ、特殊な拡大鏡をたよりにこの最も愛着の深い四十年前の作品をキーボードの練習用テキストに選びました。一本の指だけの練習をすすめる中で、やがて作品の文章、文体、描写、事実に不満を感じ、徹底的な改訂、書き直しをパソコンを使って始めたのです。
 文章・文体・描写については、『一休』『寺泊』などで文学表現の極限をきわめたと言われる先生にとってみれば、流行作家時代の荒さが気になったのでしょう。「事実」については、先程の「三つの時代」が重なっていることからくる誤認が目についたのでしょう。
  昨年(2004年)九月八日、先生は惜しまれながらご逝去されました。ある種の遺作とも考えられるこの改訂決定版の刊行を実現できて、少しだけご恩返しができたかなと思っております。」(河出書房新社 編集部 小池三子男)



  この作品における、雄大な構想とスケールで描かれる重厚な人間劇は、他の社会小説の類と比べて群を抜いている。小説も、映画版、TV版もそれぞれ全く違う面白さを作っているのに驚く。それぞれがそれぞれにとても面白い。犬飼多吉(樽見京一郎)をとりまく登場人物の織り成す人間ドラマは、人間の宿業や運命を描いて余すところがない。比類ない名作といえる。特に、娼婦杉戸八重は、水上作品でよく描かれる、運命や貧しさに翻弄されながらも、人としての純粋さを失わない哀しい女である。八重の出る場面はいずれも切々として、読む者の胸を打つ。水上勉の作品は、僻地や寒村、寺などを背景に、運命に翻弄される人間の宿業やその哀しみを描くものが多い。映画化された水上文学は名作が多く、演ずる女優たちの魅せるエロスの鮮烈な美しさ、豊かな香りは、日本映画に独特の異彩を放っている。水上作品には独特の抒情が流れており、それが読む人をひきつけてやまないのではないだろうか。



「女ってやつはほんまに恐ろしい動物やな、外面如菩薩、内面如夜叉や」

◇水上勉原作の映画作品◇

「ブンナよ、木からおりてこい(1987) 」監督:小沢栄太郎/丹野雄二
「父と子(1983)」 監督:保坂延彦
「白蛇抄(1983)」監督:伊藤俊也 主演女優: 小柳ルミ子
「五番町夕霧楼(1980)」 監督:山根成之 主演女優: 松坂慶子
「棺の花(1979)」監督:伊藤俊也 主演女優: 小柳ルミ子
「はなれ瞽女おりん(1977)」 監督:篠田正浩 主演女優: 岩下志麻
「あかね雲(1967) 」監督:篠田正浩 主演女優: 岩下志麻
「湖の琴(1966)」 監督:田坂具隆 主演女優: 佐久間良子
「波影(1965) 」監督:豊田四郎 主演女優: 若尾文子
「飢餓海峡(1964) 」監督: 内田吐夢 主演女優: 左幸子
「沙羅の門(1964) 」監督:久松静児 主演女優: 団令子
「越後つついし親不知(1964) 」監督:今井正 主演女優: 佐久間良子
「越前竹人形(1963)」 監督:吉村公三郎 主演女優: 若尾文子
「五番町夕霧楼(1963)」監督:田坂具隆 主演女優: 佐久間良子
「雁の寺(1962)」 監督:川島雄三 主演女優: 若尾文子
「霧と影(1961) 」監督:石井輝男



「しかし経験豊かな私の性の歴史を一貫して流れる原初的な風景は、総じて母の像につながる若狭の貧しい生活であった。」
 九歳で母から引き離され、一人で生きることを強いられた者の屈折した孤独な感情のすべてが、女たちへの「好色」を通じて母へ、そして母を通じて日本の民衆的深層の生へと、全存在感情でつながっている。娼婦、遊女、孤児、貧しい百姓女、ろくろ回し・・・水上勉の描く女たちは、どれもかなしいまでに切ない境界の者たちだが、彼女たちはその健気さ、やさしさ、いじらしさと共に、その醜さ、愚かさ、あわれさをも少しも見逃されずに、ということは一個の全的人間としてそこに生きていることが感じられる。彼女らを通じてそこに日本の最下層が生き生きと把握されていると感じられる。独特の艶をもってたしかにそこに存在しているのである。
 日本文学はこれまでこういう者たちの世界を、水上勉のように真正面に据えて、たっぷりとひろげてみせることができなかった。それは、文学が知的階級の文学だったからで、水上勉をまって初めてこういう深層は表現を得たのである。(「カザを嗅ぐー水上勉の文学ー」中野孝次 より)



「水上勉ほど多くのなりわいを経験し(37回職業をかえている)、昔風の言い方でいうと行商人として職業を転々とし、田舎わたらいをしてきた小説家も珍しい。(中略)
 水上勉は在所である若狭を起点に、かつての中世の僧侶や、瞽女、琵琶法師などの旅芸人、あるいは菅江真澄などのような大旅行者と同じように歩いた作家で、日本各地の風土と空気をよく観察し、それぞれの在所で生きざるをえない人々の影と日向を知悉している。
 これは小説や評伝の舞台を描くときにいつも念頭におかれ、実に現場に足を運ぶことによってその主題を決定するという方法に色濃く反映されている。歳月をかけたその土地と人々への取材と吟味の果てに、虚実のあわいに浮かび出て妖しく揺曳する幻花が水上文学なのだ。(中略)
 この一所定住をせず日本中を駆け抜ける精神は一種の無頼であり、この小説家の根源的な資質のようなものである。幼い頃、小僧として京都の相国寺に師弟として修行したが、還俗したことがそれに拍車をかけた。それから日本中を放浪し、文芸の徒として生きることとなった。」(樋口覚「語り部の文芸世界」より)









監督 : 内田吐夢
製作 : 大川博 原作 : 水上勉 脚色 : 鈴木尚之
企画 : 辻野公晴 / 吉野誠一 / 矢部恒
撮影 : 仲沢半次郎 音楽 : 富田勲 美術 : 森幹男
編集 : 長沢嘉樹 録音 : 内田陽造 スクリプター : 遠藤努 照明 : 川崎保之丞



【内田吐夢(うちだとむ、本名:常次郎)】
明治31年(1898)岡山市で菓子屋の息子として生まれる。中学校を2年で中退し横浜に創立されたばかりの大正活映に入社。大正11年(1922)牧野映画に移り『噫小西巡査』を衣笠貞之助と共同監督し監督デビューする。その後、日活多摩川撮影所に移り『限りなき前進』『土』などを監督する。戦前は満州映画協会に在籍する。昭和29年(1954)に日本に戻り翌年監督業に復帰。『大菩薩峠』『宮本武蔵』『飢餓海峡』などを監督する。昭和45年(1970)『真剣勝負』のロケ中に倒れ死去。享年72歳



三國連太郎 伴淳三郎 左幸子 高倉健 風見章子 加藤嘉 進藤幸 加藤忠



【三國連太郎】(みくにれんたろう)

1923年1月20日群馬県太田市に生まれ、静岡県松崎町で育つ。
'43年、徴兵により静岡連隊に入隊、中国方面に出征。敗戦を中国の漢口で迎え、帰国。'51年、『善魔』(木下恵介監督)で映由デビュー。その時の役名をそのまま芸名とする。'69年、独立プログタション株式会社エーピーシーを設立。俳優として活躍しながら映画製作にも意欲を燃やし'87年、原作・監督した『親鸞・白い道』('87)は第40回カンヌ国際映画祭審査委員賞を受賞。主な代表作に『異母兄弟』('57:家城巳代治監督)、『飢餓海峡』('65:内田吐夢監督)、『復習するは我にあり』('79:今村昌平監督)、『未完の対局』('82:佐藤純彌/段吉順監督)、『息子』('91:山田洋次監督)、『釣りバカ日誌』シリーズ『夏の庭/The Friends』('94:相米慎二監督)など。『利休』('89:勅使河原宏監督)『三たぴの海峡』('96:神山征二郎監督)では日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞、他多数の受賞作がある。「白い道-しかも無間の業に生きる」「俳優X君への手紙」ほか著書も手掛け、また写真集「Cigar」も発刊。'84年に紫綬褒章、'93年には勲四等旭日章を叙勲された。新藤監督とは『流離の岸』('56)以来、実に43年ぶりの共作となり、俳優生活50周年を迎える年に記念すべき作品となったとコメントしている。



【左幸子】(ひだりさちこ)

  爪。犬飼多吉が残しした爪を守り神のように慈しみ大切に保存する八重。時折それを取り出しては肌に当てて恍惚とする八重、爪が決定的な物証になる。こうしたディテールが、この骨太な作品に比類のない人間的リアリティを与えた。
1930年6月29日~ 2001年11月7日。富山県下新川郡朝日町出身。本名は額村 幸子(ぬかむら さちこ)日本映画の黄金時代を駆けぬけた、気丈夫で個性的な“うまい”女優さんでした。新東宝、日活、大映に短期間所属したことはあるが、五社協定をものともせず、一匹狼の女優として活動。映画会社にスターとして売り出してもらうより、いい脚本、いい監督の作品を自ら選択することを重要視し続けたためである。一聞では“言われた通りに演技しない使いづらい”役者と、噂された。ホンにある演技のつけ方が不自然で納得がいかないと、絶対、譲らない。ところが一旦、受け入れると、比類のない輝きを見せ、疑心暗鬼だった監督やスタッフを驚かせる芝居を、いとも簡単にやってのける女優だったという。1959年、映画監督の羽仁進と結婚。1964年に長女・未央を出産。1973年、羽仁は娘を連れてアフリカに長期撮影旅行に出かけるが、これに同行した彼女の実の妹(四女の額村喜美子)と不倫をしていたためショックを受け、酒浸りの生活を送る。1977年、娘の教育問題などを理由に離婚。羽仁はその4ヶ月後、額村喜美子と再婚。 1985年、胃ガンのため胃の一部を切除。胃切除後は体調が思わしくなく、次第にスクリーンから遠ざかっていく。
2001年11月7日、国立がんセンターで肺ガンのため死去。享年71。

映画監督・今村昌平
「自己主張の強い女優さんで、一時期、映画会社から嫌がられたこともあり、『にっぽん昆虫記』の主役に起用しようとした時、当時の日活の首脳部が嫌がったことを覚えている。強引に、独立独歩で仕事をしてきた人だった。普通、女優というのはなよなよしているものだが、彼女は女優になる以前は陸上の選手だったせいか、目標を定め必死に走る姿がランナーのようで、素晴らしい女優だった。」



昭和22年9月20日。十号台風の最中に北海道岩内で凶悪事件が発生。質店の一家三人が惨殺され、犯人は放火後姿をくらましたのだ。そして折からの台風のため嵐となった海で青函連絡船沈没の惨事が起きた。嵐の海は巨体をのみ船客532名の生命を奪った。死体収容にあたった函館警察の弓坂刑事は、引き取り手もなく船客名簿にもない二つの死体に疑惑を感じたことから質店一家殺しの犯人の糸口を掴む。

逃亡中の男・犬飼は一夜を共にした娼婦・八重に、何も語らずに金を渡し去った。犬飼へ愛を抱き、唯一心の支えとひたすらに生きてゆく八重。それから10年後、皮肉な運命の歯車は回り始めた。一途な女の愛の執念は、愛する男を新たなる犯罪の渦中へと引きずり込んでゆくのだった...。



「飢餓海峡。 それは日本の何処にでもみられる海峡である。その底流にわれわれは、貧しい善意に満ちた人間の、ドロドロした愛と憎しみをみることができる。」


モノクロームのシネマスコープに延々と映し出される津軽海峡の海。
水上勉の小説を、監督の内田吐夢と脚本家の鈴木尚之が映像化した、日本映画史上に残る不朽の名作。岩内→函館→大湊→東京→舞鶴と列島縦断の舞台展開もさることながら、この時代の貧困の中にうごめく人々の生きざまが180分という時間の中に大きく描き出されている掛け値なしの傑作。またこの映画は「東映W106方式」という方式で撮られ、これは16ミリで撮って35ミリに変換する技術で、5倍に拡大された粒子がザラザラとした質感を出し、記録フィルムの様なリアリティを醸し出しして、ドキュメンタリーな映像を作っている。











































DVD『飢餓海峡 全集』 <昭和53年(1978)フジテレビ放映>

監督:浦山桐郎、恩地日出夫 企画:今村昌平 脚本:石堂淑朗、富田義朗 撮影:安藤庄平
助監督:小栗康平、山下 稔、中井俊夫 照明:島田忠昭 録音:吉田庄太郎 美術:佐谷晃能
音楽:真鍋理一郎

若山富三郎 山崎 努 藤真利子 多々良純 浜村 純 森本レオ 殿山泰司 河原崎長一郎 三条泰子 村野武範 岡田英次 他

 「飢餓海峡」は昭和37年1月から約一年間週刊朝日に連載され、最初の映像化は昭和40年(1965)1月東映でした。昭和53(1978年)、フジテレビ=バリアンツで制作されたこのTV版『飢餓海峡』は、9月2日から10月21日、全8回の放映となった。日本映画を代表するスタッフが集結、配役も名優たちが顔を揃えている。企画は長谷川和彦監督の『惜春の殺人者』(76)をプロデュ一スした直後の今村昌平。監督は「青春の門/自立篇」(76)が公開されたばかりの浦山桐即に、人気ドラマ「傷だらけの天使」(74~75)などTV界でも活踵中の恩地日出夫がダブルであたる。このTV版は、今村昌平の企画の下、石堂淑朗が原作にはない挿話を書き込み、練りに練った脚本で、人物造形も深く素晴らしい傑作となった!368分(46分x8話)という時間で、原作とも映画版とも違うTV版オリジナルのラストの展開は実に見ごたえがあって凄い!他にも真鍋理一郎の哀切なギター曲が胸に迫る。撮影、助監督、も映画界屈指のスタッフが結集して、各人が力量を発揮する傑作巨編となった。





津軽海峡冬景色

阿久悠作詞・三木たかし作曲
石川さゆり唄

上野発の夜行列車 おりた時から
青森駅は 雪の中
北へ帰る人の群れは 誰も無口(むくち)で
海鳴(うみな)りだけを きいている
私もひとり 連絡船に乗り
こごえそうな鴎(かもめ)見つめ
泣いていました
ああ 津軽海峡 冬景色

ごらんあれが竜飛岬(たっぴみさき) 北のはずれと
見知らぬ人が 指をさす
息でくもる窓のガラス ふいてみたけど
はるかにかすみ 見えるだけ
さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする
泣けとばかりに
ああ 津軽海峡 冬景色

さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする
泣けとばかりに
ああ 津軽海峡 冬景色



「」

作詩:吉岡治 作曲:弦哲也
ちり紙につつんだ 足の爪
後生大事に 持ってます
あんたに逢いたくなったなら
頬っぺにチクチク 刺してみる
愛して 愛して 身を束ね
たとえ地獄のはてまでも 連れてって
あゝこの舟は 木の葉舟……
漕いでも 漕いでも たどる岸ない
飢餓海峡

一夜逢瀬で わかります
口は重いが いい人と
遣らずの雨なら よいけれど
泣いてるみたいな 恐山
殺して 殺して 爪たてて
首にあんたの手を巻いて 連れてって
あゝこの海は 赤い海……
漕いでも 漕いでも 戻る道ない
飢餓海峡

愛して 愛して 身を束ね
たとえ地獄のはたまでも 連れてって
あゝこの舟は 木の葉舟……
漕いでも 漕いでも たどる岸ない
飢餓海峡


Katteni Special Thanks ! To Kishin Shinoyama.

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